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Posted by: ifcayouth Category: フォスターユースとメンタルヘルス Comments: 0 Post Date: June 2, 2017

メンタルヘルスとフォスターユース:私の場合

佐藤智洋

私の名前は佐藤ちひろです。20歳です。私は15歳の時父親の虐待が原因で児童相談所に保護され、児童養護施設に入所しました。そして施設で4年間過ごし、19歳の時に退所して、今は奨学金をもらいながら大学に通いながら、大学の近くで一人暮らしをしています。

<日本の社会的養護の概要>

まずはじめに、皆様に日本の社会的養護の現状についてお話したいと思います。日本には今、47600人程の社会的養護のもとに暮らしている子どもたちがいます。その内の半数以上、約3万人の子供が児童養護施設で暮らしています。社会的養護のもとに入ってくる理由は様々ですが、その多くは両親の虐待、ネグレクトなどが原因です。

日本の社会的養護で特徴的なところは、乳児院という施設があることそして保護された子供の施設委託率が90%に登るというところです。では、2つの施設の説明をさせて頂きます。

まず、乳児院とは、児童福祉法に定められた入所型の児童福祉施設です。様々な理由で家庭での養育が困難になってしまった乳児を養育し、あわせて退所したあとにも相談などの援助を行うことを目的としています。現在、日本には全国に約130の乳児院があり、約3千人の赤ちゃんたちが生活しています。

そして、児童養護施設とは児童福祉法に定められた児童福祉施設の一つです。児童養護施設には予期できない災害や事故、親の離婚や病気、また不適切な養育を受けているなどさまざまな事情により、家族による養育が困難な2歳からおおむね18歳の子どもたちが暮らしています。現在、日本には全国に約600の児童養護施設があり、約3万人の子どもたちが暮らしています。

日本では、3歳以上の子供が家族による養育が困難で保護された場合、児童養護施設に入所することが主流になっています。施設入所率と里親委託率を比較した場合、施設入所が89%、里親委託が11%ほどです。2015年現在、児童養護施設の児童の数は約3万人、里親家庭で暮らす児童の数は約4500人程です。

<私のメンタルヘルス・ケアの経験と提案 >

私は施設にいるときに、何度もメンタルヘルスのケアを受けてきました。15歳までの実親との生活の中で心に残ってしまった傷を治療するためです。実親との生活は今考えればとても異常なものでした。身体的な暴力、言葉の暴力、家事掃除洗濯などをすべてやらされる奴隷のような生活。時にはゴルフクラブで殴られたり、机に頭を叩きつけられたり、髪の毛をすべて刈られて丸坊主にされたこともあります。

そのような生活を15年間続けていた私は、施設に入所した直後からPTSDに悩まされることになりました。当時の私は、毎日が辛くて、自分はもう生きてても邪魔な存在だし、生きている価値のない人間なんだから死んだほうがいいんだと、部屋の中で毎日毎日どうしたら死ねるのだろうと考えていました。

そんな時、私の施設の職員が私のことをすごく心配して、メンタルヘルスのケアを受けることが決まりました。そして始まった私にとって初めてのメンタルケアは、施設に常駐している心理士の方とのカウンセリングでした。カウンセリングは2週間に1回ほどでしたが、症状があまりにひどかった為嘱託医の精神科の先生のもとにも通い、精神安定剤と睡眠導入剤を使用しながらのケアになりました。施設の心理士の方は、とても熱心に私のPTSDの症状に向き合ってくれました。どうやってトラウマと向き合っていくか、どうやってフラッシュバックから自分を傷つけずに抜け出すか、など1つ1つの症状に解決法を一緒に考えてくれました。最初の3ヶ月ほどはまったくPTSDの症状に改善が見られなかったのですが、半年、1年と治療を続けていくうちに、フラッシュバックする回数が段々減っていき、悪夢を見る回数も減っていきました。そして1年が過ぎた頃には、薬を飲まなくても眠れるようになり、精神安定剤もほとんど飲まずとも日常生活を送れるようになりました。そんな時、施設の職員がもう一度高校に入ってみないかと提案してくれました。1年間のブランクがあったので、高校受験の為の勉強はすごく大変でしたが、2ヶ月みっちり勉強して何とか高校に受かることができました。高校に受かってからは、入学が待ちどうしく、新しい生活が始められることが凄く楽しみで、こんなことしたい、あんなことしたいと毎日がキラキラしていました。15年間の辛い生活から抜け出し、やっと自分の足で歩けるようになったと感じていたからです。

ですが、私の幸せな生活は長くは続きませんでした。2011年3月11日、午後2時46分、東日本大震災がおこりました。そして大きな大きな津波が私の祖父母を奪っていったのです。私にとって祖父母は、生き甲斐でした。私が親戚の中で一番末っ子だったこともあり、とても可愛がってくれて、いつも祖父母の家に行くと痛いくらい抱きしめて名前を呼んでくれました、そして、食べきれないほどの料理を作ってくれて、毎日祖父母と私の三人で、散歩をしたり、昼寝をしたり、編み物をしたり。三人でいるときはいつもいつも笑いが絶えませんでした。両親からはそんなことをしてもらったことがなかったので、愛情を注いでくれる祖父母が私は大好きで、辛い時はいつも祖父母のことを思い出していました。そんな私にとって唯一の家族と言える人たちを津波は、私から奪い去って言ったのです。震災が起こった当時、日本は大パニックで情報が錯綜していました。未曾有の大災害のため、被害や犠牲者の把握ができなくなっていたのです。ニュースでは毎日、津波の映像が流れ、逃げ惑い泣き叫ぶ映像が流れていました。そして、私はその映像のあまりの衝撃に治療を続けていたPTSDの症状が再発してしまいました。フラッシュバック、悪夢、自傷行為、まるで1年前に戻ってしまったかのようでした。でも、そんな私に心理士さんは、大丈夫だよ、もう一度一緒に立ち向かっていこうと声をかけてくれました。そしてもう一度治療を再開することにしたのです、ですが今回は前のようにうまくはいきませんでした。なぜなら、どんなに治療しても、ニュースや人々の話し声、新聞、広告など日常生活すべての者が震災に関連したものばかりでうめつくされていたからです。もうその時には、高校が始まっていたので部屋に引きこもるわけにもいかず、通学で必ず乗らなければいけない電車の中で震災のニュースが流れていたり、学校での校長の話で震災のことを話されたりと、逃げたくても逃げられず苦しかったことを今でも覚えています。

私は、震災が起こった日から、毎日祖父母の家に電話をかけつづけました、そして行方不明者を探すメッセージを登録できるところにも毎日電話をかけ、メッセージを残し続けました。ですが当時携帯を持っていなかったので、電話は施設のものを借りるしか方法がなく、何度も何度も頼み込んで電話させてもらっていました。そして、1ヶ月ほどが過ぎた頃、ある事件がおきました。いつもの用に電話をかしてもらおうと職員におねがいしにいくと、迷惑だからもう電話をかけるのはやめてほしいと断られてしまったのです。そして次の一言にあぜんとしました、あなたが電話をかけ続けても意味が無いでしょ、見つかるわけでもあるまいし、私達は忙しんだからそんな意味のない行動に付き合わせないでと言われたのです。自分にとって最愛の人たちが、行方不明になった時あなたならどうしますか?電話をかけ続けませんか?メッセージを残しませんか?それは意味のない行動なのでしょうか。その時、心理士さんは私に電話をかけることで心が少し落ち着くならそれを続けたほうが良いと話してくれていて、心理士さんの方からも職員に電話をかけさせて上げるようお願いしてくれていたのですが、職員たちは意味のない行動と勝手に決め付け、その日以来電話をかけさせてもらえなくなってしまいました。祖父母を探したいのに、自分は何も出来ないというジレンマで私の精神はどんどんと追い詰められていきました。その後も、私が祖父母を探すために何かしようとすると、意味ないよや、無駄だよいつか連絡がくるから待ってたら、などと話、何も協力してくれませんでした。月日が流れていくごとに、私の精神状態は悪くなっていき、本当に1年前に戻ってしまったようでした。

そして、震災から5ヶ月がたった8月にある日突然、施設に福祉士さんが訪ねてきました。そして彼女は私に、祖父母の遺体が見つかったこと、遺体の腐敗が進んでいてすぐにでも火葬が必要だったためもう、骨になって安置されていることを伝えてくれました。私はその日初めて、大声を上げて泣きました。私の大好きな祖父母はもうこの世のどこにもいないのです、二度と会えないと実感したからです。祖父母が死んでしまったのではないだろうか、という気持ちは震災があった日から心の何処かで感じていました。でも、奇跡を願っていたのです、もう1度会えると信じていたのです。だから、震災当日から1度も泣きませんでした、そして電話をかけ続けて、メッセージを残し、いつか会えた時に元気に高校に通っている姿を見せたくて、どんなに外の世界が怖くても休まず高校に通いつづけたのです。私の心の傷を治すために、心理士さんは精一杯を尽くしてくれました、希望を捨てないでと励ましてくれました、でも職員は違いました。施設にいるときに、最も多く時間を過ごす職員が私の希望を打ち砕くような発言を重ね、私の努力を無意味なものと決めつけました。震災から4年以上経ち、私は心理士さんを始めとした沢山の人の支えでPTSDを克服し、まだ完全に治ったわけではありませんが元気に過ごしています。そして、施設の職員とも施設を退所した今も交流を続けています。ですが、あの時の気持を忘れた日は1日もありません。きっと、あの時の祖父母を失った悲しい気持ちと、自分の行動を無意味なものと決めつけられた悔しい気持ちは一生忘れることはないと思います。

私は、もし社会的養護の元にいる子供がメンタルヘルスのケアを受けるとき、専門家の治療だけではなく、周りの人のサポートも大切な治療の1つだと思います。専門家の方はもちろん最善を尽くしてくださると思いますが、大切なのはその治療する環境を保ちつづけることだと思います。治療を受けている間だけではなく、施設に帰ったあとも子供に直接関わる大人たちが治療を手助けするような対応をすることや、症状を悪化させない行動を心がけることもとても大切ではないでしょうか。社会的養護のもとにいる子どもたちに関わる大人全員が、メンタルヘルスに精通している人ではありません。だからこそ、私のようなケースが起こってしまうのだと思います。例えば、子供のメンタルヘルスの治療計画をたてるときに、周囲の大人も巻き込んで、様々な方面からの治療を試みることや、それぞれの治療ケースにマニュアルを作り、関わる大人がしたほうがいいこと、してはいけないことなどを明確にすることなどは効果的ではないでしょうか?私は1人の社会的養護のもとで育った子供です、なのでメンタルヘルスのプロフェッショナルではありませんが、もしあの時、心理士の方と職員がもっと強固な協力関係を持っていたら、あのような悲しい思いをすることはなかったのではないかと思います。もう2度と私の様な思いをする子供が出てほしくないです。

最後に、こんなに大勢のプロフェッショナルの方たちに自分の思いを伝える機会をいただき本当に有難うございます。ご清聴ありがとうございました。

*このスピーチは、2015年ボストン市で開催されたAPSAC (全米児童虐待防止学会)で発表されました。 

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