ティム・ベル
自分の18才の誕生日のことを振り返る時、僕のことを支え、愛し続けてくれるはずだった里親が「僕を拒否した」思い出がよみがえってくる。少なくともその時はそう感じていた。でも実際には、里親と僕が思い描いていた「これからのお互いの関係」がふたつの違った方向をむいていただけだったことが、あとからわかった。里親たちと自分が、どんなかたちで将来、親子の関係を続けてゆきたいのか、 どんな結びつきを求めているのか・・・その時の僕には皆目わからなかった。
当時18才だった僕には、5年間一緒に暮らした家族を離れて大学の寮に引っ越す日に、里親が言った「家の鍵を返してね」という一言は、彼らの子どもではなくたったことを意味していた。
僕は大学に入学してからも、里親の心中をさぐり、彼らとの関係を「試す」行動を何度か取った。教科書を買うお金が足りなくて、誰に頼ったら良いかわからず、里親に150ドル貸してくれないかとたずねた。その時の里親のリアクションが信じられなくて、僕はその学期が終わるまで教科書無しで通学した。(当然かもしれないけれど、その科目の成績は悪かった。)この教科書の一件と、里親との他のいくつかの出来事を考え合わせて「里親はもう僕とかかわりたくはない」という自分なりの判断をした。その時、僕が若気の至りで気づけなかったことは「人と人との関係に、ひとつの定理などはない」ということだった。
人間関係には、何百、いや何千の細やかなニュアンスがある。数年という時を経て、いくつかの大切な人間関係を経験し成長した僕がいま、以前とは違う観点に立って言えることは、里親たちは、僕にずっと彼らの人生の一部でいて欲しいと感じていたことだった。その感じ方や思いは、僕が彼らに期待していた関係とは違っていただけだった。だから、里親が僕を失望させた時、僕がユースから大人へと成長して行く変わり目に、必要としていた支えがそこにないとわかった時、里親たちのとった態度や行動を、僕に対する拒絶、と解釈してしまったんだ。僕は時々、世界を白黒の絶対的な価値観で見てしまう傾向がある。その中間にある、灰色の部分が目に入らない。それが僕の性格だと言ってしまえばそれまでだが、年若かった頃の自分に向けて今、言えるのは、誰かが自分の期待に添えるような支え方をしてくれないからといって、それが単純に自分を愛していない、とか、大切な人であり続けることを望んでいない、とは限らないということ。もっと端的に言うなら・・・
教科書代を貸さない ↑ あなたとはもうかかわりたくないから、電話をかけないで
ほとんどの若者が、僕に実際に起きたような状況の中で、相手とどんな対話をしてよいのかわからないだろうと思う。それは、企業のトップで仕事をするビジネスマンですら解決に困るような、コミュニケーションの難題だからだ。僕も里親も、お互いへの暗黙の期待を、どう理解してよいのか、見当がつかなかった。
僕のエージングアウトは、ほんとうは、僕が里親たちの家を去った時の、彼らとの以前と変わらない恒久的な関係を意味していた。里母と里父は、僕が経済的にはひとり立ちしても、感情的な支えになるために、いつまでもそこにいてくれようとしていた。僕はそんな彼らの気持ちに気づくことなく、措置解除になった。
それだけが理由ではないことは確かだ。でも、里親との決別の仕方が原因となり、その後の僕には今までの人生の中でも、いちばん困難の多い時期が待っていた。セーフティネットがないために、身がすっぽり落とし穴に堕ちてしまう 状態。それも、度重なる急落下。僕の場合は、運良くもその経験が破滅的でもなければ、生死にかかわるような重大事でもなかった。他の当事者ユースが経験するような、医療費がかさんで、返済できなくなるような重症を負ったわけでもない。子どもを持っているフォスターユースはたくさんいるけど、僕はそんな立場におかれたこともなければ、薬物依存にもなったことがない。法に触れるような事態を起こして、何年間も犯罪歴を背負って生きた経験も無い 。
けれど、困った時に、誰にも助けを求めることができなかった経験は何度かある。僕が6年もつきあった恋人と別れた時、どうしたらよいかわからず路頭に迷い、しばらくのあいだホームレスだった。学校に必要なものを買うお金がしばしば底をつくような状態におちいった時、僕は襲ってくる鬱の症状で学校にも通えなかった。こんなハードルのひとつひとつがあるたびに、信頼できる大人がひとりでもいてくれて、僕を支えポジティブな方向へと導いてくれたら、困難をもうすこしスムーズに乗り越えられていたかもしれない、と思う。
フォスターユース(社会的養護の当事者)のひとり立ちを援助する格好なプログラムがふたつある。僕の学校には残念ながら無かったけれど、キャンパス内で、ユースの援助をする特別の機関やプログラムが、ひとつの対策として挙げられる。僕と里親は、けして複雑な問題を抱え込んでいたわけではない。お互いが措置解除後に、どのような関係を保ってゆくか、という事前の相談をしておければよかっただけなので、その相談のプロセスを、だれかトレーニングをうけた人が指導してくれていたら、きっと違った結果があったのだと思う。
今思えば、エージングアウトするときに、里親と、どんな付き合いをするのか、どんな関係を持ち続けるのか、という話し合いの仲介をしてくれて、具体的なプランを一緒につくってくれる、そんな支援が必要だった。学校の夏休みやクリスマス休暇には、里親の家に泊まっても良いのか。精神的な支えになってくれるのかどうか。恋愛の相談にのってくれるのかどうか。お金が無くなった時は、頼っても良いのか。僕と里親の場合は、この最後の一点が致命的だったわけだけど・・・。でも、里親たちは僕を助けたくなかったわけではない。僕の「こんなふうに援助して欲しい」という期待に答えられなかっただけだ。もしも僕がそのことにもっと早く気づくことができて、しっかりコミュニケーションがとれていたなら、里親たちと話さずに過ごした時間がうんと短くなっていただろうと思う。
幸運にも、僕らユースのための「措置解除前の大人との対話のモデル」が在る。そのモデルは、日本の当事者とサポーティブアダルト(大人の支援者)に、とても役に立つモデルだ。パーマネンシー・パクトというモデル。(僕が前にこのことついて話していたのをきっと覚えていると思う。)ユースの将来、つまり『パーマネンシー』の設計とはどんなものかを、具体的に、やさしい言葉で教えてくれるツールだ。サポーティブアダルト(SA)とユースが、お互いに膝を突き合わせて話す。 SAとは、里親や、教師や、協会の牧師など、あらゆる立場や地位の大人を指し、ユースの継続した支援をしてゆく人のこと。このユースとサポーティブアダルトの話し合いには、ファシリテーター(進行役)が仲介に入り、措置解除後のユースとSAの関係がどんなものになるのか、話し合いをまとめる役目をする。なんだか、年若い当事者たちにとっては、このファシリテーターの存在は威嚇的で、かしこまって聞こえるかもしれない。でも、このモデルはユース主導型だから、まずユースがファシリテーターと先にふたりだけで話をする。言い忘れたけれど、ファシリテーターとは学校の先生、ソーシャルワーカー、施設のスタッフ、などいろいろ。その後に、ファシリテーターはSAと話しをして、ユースのリクエストにそって、ひとり立ちした後も、ずっと支えて行くことができるか、支えて行きたいのかを聞き出す。ユースとSAはその後、初めて対面して、将来のお互いの関係について、具体的にどんな支援が差し出されるのかを話し合う手順になっている。
もちろん、ここに僕が挙げたサービスやツールのほかにも、ユースがケアを離れて大人になる時に役に立つ支援の方法がたくさんある。僕は、 日本ではもっと“大きなスケール”でたくさんのユースにベネフィットのある自立支援が普及してゆく必要があると思うし、アメリカでは、支援の質の向上が目指されるべきだと思う。でも、これだけは個人のレベルで言えるけれど、僕が18才にならんとしている時に、ほんとうに必要なものをひとつだけ選べるとしたら、それはパーマネンシー・パクトのような、カンバセーション・スターター(対話を始めるツール)だったのだと思う。大阪のIFCO 大会で会ったたくさんの日本の当事者たちにも、僕の経験があてはまる、と感じた。パーマネンシー・パクトがあったら、きっと彼らを救えただろうな、と感じた。日本で出会ったユースたちとの話し合いの中で、エージングアウトして、大人になる時期の不安感は、僕たちアメリカのユースたちと共通するものがあった。自分の将来は、いったいどうなってゆくのか、誰が自分の助けに、支えになってくれるのか、という不安定な気持ち。僕自身が抱いた、そして、日本のユースたちが抱いている不安を解決する方法はとてもシンプルだ。「尋ねてみる」ことではないだろうか。でも、それにはそうとうの恐怖感がともなうし、そこまでのステップを踏むのにはすごい勇気がいることは、言うまでもない。もしも、断わられたり、拒絶されたら、どうしようか・・・。これが、僕がパーマネンシーを確保するための地ならしがとても大切で、確固としたモデルがどれほど重要か、ひとりのユースとして感じている理由だ。
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