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Posted by: ifcayouth Category: My Transition Story Comments: 0 Post Date: 7月 12, 2020

私の移行期 by K

私は小さい頃から家庭環境が貧しい生活だった。小学生の頃、他の友人が持っているような文房具一つを買うことも母には伝えづらかった。その時から友人が普通と感じている生活と自分との生活に差がありすぎて違和感を感じていた。私の両親は私が小学生の頃にすでに離婚しておりそれからは母子家庭というかたちで私と兄弟2人そして母との4人で生活していた。

母は精神的な病気を患っており私たち兄弟は自分たちで身の回りのこと、洗濯から掃除、食事まで自分たちで作って生活していた。母は経済的な困窮と精神的な病から苦しんでいた。私には他の友人には当たり前の生活がなぜ自分にはできないのか理解できず母のせいにして母をせめてしまったこともあった。そんなとき母は私たち兄弟を残して他界した。私は母をせめたことをとても後悔した。

それから私たち兄弟は自分たちで生計を立てていくことも難しかったため児童養護施設に入所させられた。最初は何が悪くて施設で生活しなければならなかったのか分からず混乱していた。他の人のペースに合わせて生活することにストレスを感じ自分にとって何のメリットもないような生活から逃げ出したかった。実際にどのようにすればこの生活から抜け出すことができるのか考えたこともあったが逃げ出す術はなかった。

最初は施設の職員と関わることさえ、自分の個人的な情報を話すことさえ嫌だった。学校に行っても本当の自分をさらけ出すことができず授業が終わったらすぐに帰宅して学校の友人と遊ぶことはほぼなかった。学校の友人になぜ施設に住んでいるのか、なぜ親元で生活していないのか聞かれることが本当に嫌だったからだ。

そんなこともあり、この時は人と関わることが苦痛で一人でいることが一番、楽だった。一人でいる時は学校で与えられた課題を中心に勉強をした。勉強をしている時が何もかもを忘れられて自分に対して役に立つことだと思って学習していた。それから中学生になってもそのような自分は変わらず早く卒業したいという気持ちだけだった。

中学生になると施設の中では高校生と近い待遇で扱われるようになる。その時に少し気持ち的にも楽になり施設の担当の先生と話すようになった。この担当の先生は唯一、私が何も隠さず話をできる人だった。この先生は私がこの施設を退所する最後まで担当を外れることはなかった。

この先生と関わるようになってから私は徐々に人と話すようになった。しかし、どうしても自分とは合わない先生もいた。その先生は自分の気に入っている子供に対しては手厚く扱うが私に対しては明らかに嫌った態度で接してくる職員だったように感じたからだ。

このようなこともあり私は施設に堂々と当たり前のように預けている親に施設に入ったらきちんとした生活が子供たちに保証されているとは限らないと言いたい。もしかすると施設の中で自分の子供が一定の職員もしくは子供によって子供自身が制御されているかもしれないということを。また、子供たちは不快に感じている可能性があるということを伝えたい。しかし、私はこのような職員のおかげでこんな大人にはなりたくないと思えた。

私は中学校を卒業してから高校に通った。高校に入ると今まで見たこともないような優れた能力を持った人がたくさんいた。勉強ができる人、運動ができる人、語学が堪能で海外でも活躍している人など様々な分野でそれぞれが輝いていて凄い、羨ましいと感じた。このような興味深い人がたくさんいてとても楽しかった。自分よりも目標を持った人がいる環境の中で私は初めて人ともっと関わりたいと思った。

この頃から友人と話すようになり、良く遊びに行くようにもなった。しかし、変わらなかったこともあった。それは金銭面だ。他の友人は授業の終わりによく売店で飲料などを買って過ごしていたり、普通に旅行などに行ったりしていた。私は自分には用事があるなどと嘘をついてそのようなことを断っていた。この程度ならまだ良いのだが私は高校を卒業したら施設を出なければならなかったため大学に行くことにかかる費用も生活費も自分で工面しなければならなかった。

私には行きたい大学があった。しかし施設の職員からそこには金銭面的に行くことは不可能だということを伝えられた。私はその時からそのことを理由にして勉強をしなくなった。成績は落ちていき自分が行きたい大学にも行けないのに何のために頑張るのか分からなくなった。それから、現役時代に大学に落ち、大学に行くか迷い、また人と関わることに苦痛を感じ何も話したくなくなった。しかし、高校の先生からお前は絶対に大学に行ったほうが良いと言われ私は自分の人生について再び真剣に考え直した。その結果、高校を卒業し浪人という道を選んだ。他の浪人生のように予備校に通うお金がなかったため小さな無料塾に通い詰めていた。またそのころから施設を出て自立支援ホームで生活することとなった。

ホームには利用料を納めなければならなかった。その費用と次の年に向けた受験費用を稼ぐためにアルバイトも始めた。この時期は苦しかったというよりは自分の人生の中で自由が手に入ったということと、自分で働いた分お金が入ってくることに幸せを感じていた。自立支援ホームでは職員がサポートしてくれるためとても生活しやすかった。この時はアルバイトに行ける喜びと自由に自分の進路を決めれる喜びで将来に期待が持てるようになり自分に対してストレスは全く感じなかった。

実際ホームでは職員が話を聞いてくれることによって一緒にこれからの生活を考えてくれた。しかし、金銭面では誰からも援助してもらえないことは最初から分かっていた。その為大学に行くためには奨学金を借りて生活していくことは最初から決めていたのだ。奨学金を何とか多額借りないような方法を一緒に考えてくれたのもホームの職員だった。

結局、この一年頑張ってはみたものの自分が志望した大学とは違う大学に進学することが決定した。しかし、その大学で特待生になることができたためほぼ無償で大学に通うことが現在できている。私は今自分がとても有意義な時間を過ごしていると実感している。私にとって移行期とは自分の人生の中で一番将来のことについて真剣に考えた時期だ。施設を退所してから誰にも頼ることができない今、どのようにこれから一人で生きていくかを考えたのだ。その為に大学で学びたいことについて明確にしていくことでしっかりとした意志を持ち大学に通うことができている。

Kさんのプロフィール https://myvoiceourstory.org/ja/members/k/

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